部分的には同じでしょう。重なっている、オーバーラップしていると思います。
サマディにはいくつかの段階があり、それはどれくらい個人(自己)が残っているかどうか、
どれくらい「経験する主体」が残っているかという違いになります。
サマディの中では、「経験」 と「経験される対象」そして 「経験をする人」に区別がありません。
それらはすべて一つになります。
私個人として、サマディに対する考えはあります。でもそれはただのアイディアであって、経験とはまた違うものです。
例えば、子供が読み方を覚える時、大人は本に描かれた牛の絵を見せて「これが牛だよ」と言いますね。
そして次のステージである読み方の勉強として、牛の絵と「うし」と書かれているページを見せるでしょう。そして最後は「うし」という文字だけを見せる。これは本物の牛とはなんら関係のないもの、単なる抽象的なものですよね。
そして、本物の牛を見ること(経験すること)と、「うし」と言う言葉は、頭の中では繋がりはしたものの、現実的にまったく繋がっていません。
(実際の牛と、それに対して人が貼り付けた「うし」という名前は、頭の中では繋がっているけれども、現実世界の中では何の繋がりもないということ)。
すなわち、私がサマディについて時間をかけてお話したとしても、実際の経験とはどんどん離れていってしまうのです。
(Judithさんはサマディについて、「実際の経験」と「言葉で表現すること」との違いから、言及することの無意味さを上のように説明してくれています) |